00285-050119 プラス指向とマイナス指向
最近、書きたいことが多すぎて困ります。
iPod shuffleにしてもMac miniにしても、iPodや他のMacと比べて機能が限定されている面があるのは事実です。それを捉えて、これらの製品を紹介する記事は、「機能をそぎ落とした」とか「ディスプレーを削った」という形容をされていますが、shioはそのような考え方に賛同できません。アップル製品のファンだからではなくて、それらの「マイナス指向」な点が、アップル製品の理解にそぐわないと思うのです。「マイナス思考」ではなく「マイナス指向」、つまり、マイナス方向を向いている、という意味です。アップルの製品はすべて「プラス指向」で作られています。
写真の話。
写真の指南書を読むと、「写真は引き算である」という表現をよく目にします。ファイダー(モニタ)に写ったものから、あれを減らして、これを減らして……、と写り込むものを減らしていくことによって、写真の構成をすっきりとさせる、という考え方です。しかしshioは全く逆に考えます。「写真は足し算だ」と思うのです。
表現をする場合には、必ず「表現意図」があります。その意図、写真の場合では「○○を伝えたい」「○○を表現したい」などです。「○○」は、「君の瞳の輝き」であったり、「花についた雫の透明感」であったり、「真っ赤に熟したトマトのみずみずしさ」であったり。その場合、撮影しようとする対象物の核心はひとつ。写したいものはただひとつなはず。「瞳」、「雫」、「トマトの赤」。それを写すのです。「的を射た」写真になります。そしてその被写体をひきたたせるものを何か画面の中に入れれば、さらにその被写体の魅力が増します。「まつげ」、「花弁」、「黄色いパプリカ」といった具合です。だから「写真は足し算」。その前提は、「撮影したい被写体」が明確であることです。もし「引き算」で写真を考えると、何が撮りたいのかわからない、表現の焦点がボケた写真になります。
アップルの製品も同じです。
何を作りたいか。どのような製品にしたいか。そのコアになるコンセプトが極めて明確です。その上でそのコンセプトを実現するためには何が必要か。必要な限りで「足す」のです。つまり、まずコンセプトありき。次に「プラス指向」。
そのように作られた製品を評価するのに、「マイナス指向」は不適切です。「○○をそぎおとした……」とか「○○を搭載しなかった」のではない。それらが視野にこそ入っていても、製品コンセプトの実現には不要と判断されたのです。
社会には「マイナス指向」な考え方があふれています。たとえば試験の評価。「73点」というのは、「73点分取ることができた」ことよりも、「27点分、取れなかった」という含意が強い。100点満点という状態が先にあって、そこから27点マイナスだった、27点分、できなかった、という評価です。
00270-050104 作文とは何か、作文指導とは何か。で書いたように、作文を書くときは「原稿用紙3枚」などという「外枠」が先に決められていて、そこに到達したか否か、が形式的要件となる。shioが書いたように、「メッセージという核心を明確に表現して、あとはそれを支える周辺情報を盛り込む」という「プラス指向」ではなく、「規定の長さに達しているか」という「マイナス指向」が背後にあります。 一昨日のエントリーに太田康広さんと真紀さんからコメントをいただきました。どうもありがとうございました。心より感謝申し上げます。 太田さんのコメントは全くおっしゃるとおりだと思います(親友だから他人行儀に書くのは非常に違和感があるのだけど、blog上での表現なのでお許しを!!)。すべてのものごとには「例外」があります。それはもちろん承知の上で、あえてsimplifyしています。
法律とは「原則と例外の体系」です。原則、例外、例外の例外、例外の例外の例外……。はたまた、原則だと思っていたものが実はもっと大きな原則の例外だったりします。そのような発見、本質の発見が法律学を研究する「醍醐」味のひとつです。したがって、shioがこうやってblogで何かをもっともらしく主張していても、もしかしたらそれは、より大きな真理の例外を捉えてしまっている可能性は十分にあります。だから、コメントはありがたい。親友のことばはなおありがたい。誤謬があったらどうか教えてください。
「醍醐」とは「本質」という意味です。牛乳のエッセンスが醍醐です。本質の味、それが醍醐味。
本質が見えたとき、それを核とした「プラス指向」を開始することができます。つまりプラス指向をするためには、本質を把握することが前提です。常にプラスを指向し、プラスに思考するために、本質を捉えたいのです。
3秒で説明できなかったり小学生にはとても理解してもらえなかったりするものごとが世の中にあろうことは想像に難くない。理解のために予備知識がふんだんに必要なものごとがあるのも事実です。なにより、shioが理解していないことが世の中には無数にあります。しかし同時にshioは、「本質とはシンプルで、かつ具体的であるはず」と信じています。そして自分がその本質を捉えることができた暁には、それはシンプルかつ具体的であるがゆえに、3秒で説明することができ、小学生がわかるように説明することが可能になるはずだと信じています。
そして、その上でshioがいいたいことは、真紀さんがコメントに書いてくださったことと同じです。感謝です。難しいことを「易しい言葉に置き換えようとする努力こそが大事なんだと思います。」という真紀さんのことばに、大いに賛同します。「難しい事柄は難しい言葉のままで理解せよ、という姿勢にはなりたくないものです。」との真紀さんのことば、全く同感です。
難しいことを難しい、と言ってしまうのは簡単。でもそれは、「説明の放棄」であったり、相手には理解できないという「あきらめ」(ときには「見下し」)であったり、「表現力の貧困」であったりするのではないでしょうか。自然や社会の真理を探究する「学者」に求められているのは、難しいことを易しくすること。人々が「むずかしい」「わからない」「不思議だ」と感じるものごとを、それらの人にもわかるように説明できるような学者でありたい。小学生の疑問にも答えられるような大人でありたい。学生の疑問を一緒に考えられるような教師でありたい。そういうshioの理想を描いているのが、一昨日のエントリー、そしてshiologyです。
易しく、的を射た説明をするためには、的の中心、本質を把握していることが必須。それを3秒で説明できた上で、必要があれば、周辺部に説明を広げてゆく。「プラス指向」です。赤いトマトを引き立たせるために黄色いパプリカがあった方がいいのと同じです。
プロフィールに書いてあるように、「難しいことを易しくするのが学者の役目、それを面白くするのが教師の役目」と考えて、大学にいます。難しいと考えられていることを、ひとつでも多く易しくすることができたら、学者として本望です。難しいことって実は面白いんだと、ひとりでも多くの学生が感じてくれたら教師として本望です。わからなかったことわかるようになり、さらに新たなわからないことを発見するって、本当に面白いことですから。 今日一日、書きたいことはたくさんあったのだけど、もう限界。また明日、書きます。
昨日の夕景。最近、毎日、美しい。
http://www.flickr.com/photos/shio/3538141/ http://photos3.flickr.com/3538141_96a526772a_o.jpg